佐藤晶子さん(仮名)は迷っていた。
早期退職に応募して新たな人生にチャレンジするか、現在の仕事に踏みとどまるか。決心がつかないでいた。
佐藤さんの夢はこうだ。
これから起こるかも知れない自然災害や、円安やインフレに対抗するため、自給自足とはいかないまでも、ある程度の生活は自分自身で賄えるような、そんな生活基盤を作りたい。
そのためには、自分で野菜などを栽培して食すこと。最低限のエネルギーを自然エネルギーで賄える設備を整えること。そして願わくば、生活のために時間を全て費やすのではなく、時間の半分は自分の成長のための時間を持てること。このような生活が、佐藤さんの理想だ。

そしてこのような生活スタイルと「半農半X」と名付けて様々な情報を得るように心がけていた。
同じような「こころざし」を持ち先進的な活動をしている諸先輩がいることも知った。私にもできそうだ。でも資金は足りるのだろうか。仲間は募れるだろうか。
佐藤さんの友人たちは「今の会社を辞めなくても、あなたの夢は叶うんじゃないの?」と言う。
そんな迷いの中で、自分が在社中に発表される最後の早期退職制度の募集が始まった。
彼女の年齢は57歳。独身。現在の年収はそこそこ誇れる金額に達している。
佐藤さんは相談の依頼をしてきた。
以前に仕事でお会いしたことのある方だったので、オンラインではなくオフラインを希望された。通常オフラインでの相談はシェアオフィスの会議室を予約するが、佐藤さんの希望で,横浜のみなとみらいの海の見えるカフェでの相談となった。
相談の冒頭、彼女の方から上記の説明があった。その上で今後の資産計画も見せてもらった。
しかし佐藤さんの話を伺っているうちに、彼女の求める「半農」のイメージがまだ曖昧であることにボクは気がついた。
さらに彼女はこんなことも言った。「今回で早期退職制度に応募するかどうか迷うのは3回目なの。でもいつも、目の前の小さな楽しみにとらわれて決意が鈍っちゃって」。
ー その「小さな楽しみ」ってどんなことですか?
「そうなの、ちょっと見てもらっていい?」
そう言って彼女はマックブックを開いて、一つの写真を見せてくれた。
「これはね、布に蜜を塗り込んで作ったラップなのよ。蜜といっても蜜蝋を使うんだけど」
そう言いながら写真を何枚か見せてくれた。いかにもナチュラルメイドで肌の温もりを感じさせる穏やかなアイテムが並んでいた。
「私,こう言うのが好きなのよ」

そう話す佐藤さんの表情は、「半農半X」について語ってくれた時よりも楽しそうな表情であることにボクは気がついた。
ー ほかにも佐藤さんがセレクトする素敵な商品や、気持ちの良い場所とか有りますか?
そう尋ねると、彼女は次から次と様々な自分の好みのアイテムの写真や、好みの映画の話をし出した。
眼前にはインターコンチネンタルホテルが見え、その上をゆっくりと白い雲が泳いでいる。台風一過の秋のとても気持ちの良いお天気だ。

湿度の少ない心地良い風が吹くカフェで、彼女はしばらくお話を続けていた。
ー 佐藤さんにとっての「半農」と「素敵なアイテムや映画」には、ボクには、何か似ている感じがしますね。「半農」はこれから生きていく理想のインフラであり、かつその環境。「素敵なアイテムや映画」は佐藤さんにとってなくてはならない大事な心の支えになるもの。なんかそんな印象をボクは受けたのですが。
少しキョトンとした表情を浮かべたあと、彼女は語り出した。
「そうね、正直いって「半農」と、自分の大好きなアイテムとはどこか切り離して考えてたかも知れない。どちらも自分にとって大事な「何か」なのかも知れないわね。
そう言って佐藤さんは流れゆく真っ白い雲を眺めながらバニラカフェを一口飲んだ。
ー お話を伺っていると、佐藤さんが考える「半農」の意味する生活が、もっと幅のある選択肢をもっているような気がしますね。必ずしも「自給自足」にこだわらない道もあるようボクには思えます。
「そう言えばね、私もまず自分がしなきゃいけないことは、自分の大好きな物事を全てマッピングすることだと思ってたの。」
佐藤さんはマックブックの写真を次々にたぐりながらそう言った。
「自分がありたいイメージや、そのイメージを象徴する物事を少し明確にしていく必要があるのかもね。」
ー いいですね。そもそも早期退職に応募するかどうかと言う問題からは少し離れてしまったけど。今後のお金の面では、早期退職で辞めるのとしばらく継続して働くのと、そう大きく変わらないともおっしゃってましたね。であれば、貴女の言う「マッピング」にまずは手をつけてみたらどうでしょう。
「ありがとう。とりあえず何から手をつけていけばいいか見えたような気がします。」
そう佐藤さんは言って今回のセッションは終わった。
その後、佐藤さんから連絡はない。しかし何か困ったことが生じたらまた連絡をくれる気がする。
