デカルト
歴史の教科書に載っている「ルネ・デカルト」と、彼が言った「我思う、故に我あり」と言う言葉を聞いたことはありますか?高校の歴史教科書、山川出版社の詳説世界史には「数学的な論証法を用いる演繹法による合理論を打ち立てたフランスのデカルトらが、近代哲学の道をひらく」とあります。
ウイキペディアには
「〔中略〕「我思う、ゆえに我あり」は哲学史上で最も有名な命題の一つである。そしてこの命題は、〔中略〕「信仰」による真理の獲得ではなく、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。」と記載されている(2023/07/16検索)。
要するに、それまでは真理は神が与えるモノだったのに対して、デカルトは人間が真理を見つけることができると捉え直したと言うことです。従って彼は近代理性の生みの親とも言われています。
でもこの、「我思う、故に我あり」って、初めて読んだときに「なんか当たり前というかピンとこないな」と思いませんでしたか。ボクはそう思いました。「こんな当たり前のことが近代哲学の礎なんて」と思いました。
我々現代人は、「自分自身で調べ、考えることで答えが導かれる」ことを学習しているので、様々な知識を得て、自分で考えることによって「真理」が導かれることを信じており、従って「我思う、故に我あり」と言われても当たり前のことを言っているに過ぎない、と感じてしまいます。
しかし、デカルトが生まれた1596年から17世紀にかけて、まだヨーロッパは「神が支配する」世界であり、真理は神がもたらすモノでした。
それに対して「いやいや、人間だってちゃんと考えれば真理に到達できる」と神を恐れることなく言い放ったわけですから、これはこれですごいことだったと思います。
〔もっともデカルトは、現代の日本人からすると奇妙としか思えない論理で「神の存在証明」をしています。つまり神を裏切っていないと言うことを言いたかったのでしょう。つまりデカルトも神を恐れていたことが判ります〕
そしてそれから400年がたったいまでは、多くの人が「自分の答え=真理」はなんとか自分で導き出すモノだ、と信じているように思います。だからこそ。400年前のおっさんに「我思う、故に我あり」と言われても「それがなにか?」と感じてしまいます。
しかし現代は、うかうかとその「我思う、故に我あり」を信じることができない時代へとなっていることをご存じでしょうか。「我思う」と言うことが実はかなり曖昧になって来ているのです。「我」と言う主体の存在が曖昧になり、「思う」と言う主体の行為も主体から引き剥がされているのです。
理性を失った時代?
その状態に陥っている社会のことを、難しく言うと、哲学的には「ポストモダニズム」の時代であり、社会学的には「再帰的近代」の時代であると言います。
簡単に言い換えると「スマートフォン」の時代であり「GoogleやAmazonやFacebookやAppleやMicrosoft」の時代と言うことです。
今日の通勤の際に電車の中を見ていると、7人掛けの座席に座っている人は6人がスマートフォンを見ていました。ボクの両隣の人は熱心にゲームに興じていらっしゃいました。ボクはこの様な風景を少し気味悪く感じます。
デジタルネイティブ世代からすると当たり前のことかもしれません。でも、多くの人がスマートフォンに没入しているのはボクにはとても薄気味悪く思えます。百歩譲って過酷な通勤電車の中で暇つぶしにスマートフォンを見るのは理解できます。しかし混んだホームや階段を歩いている際もスマートフォンから目を離さない人が一定数いると言うことは、やはりかなり異常なことでは無いかと思います。
これを悪いことだと言っているわけではありません。〔歩きスマホは悪いと思いますが〕
そこまでスマートフォンが提供するコンテンツや、メッセージのやりとりに夢中になっているという事実が、非常に大きな意味を持つのでは無いか、と言うことです。
言い換えると、「あなたたちはスマートフォンを使っているのでは無く、スマートフォンに支配されているのではないか」と、ボクには感じてしまします。そしてボク自身も、支配されているとまでは言わないが、現実問題として様々な個人情報が盗まれているのは気持が悪く感じています。
ボクたちは何気なく普通にスマートフォンやパソコンを使って「検索」をします。その検索アルゴリズムは事実上Googleが支配しています。あなたの通信履歴と一緒に〔場合によっては位置情報も含めて〕検索内容はGoogleなどのサーバーに常に記録されていきます。そして気がつくと、検索結果の画面のそこかしこに、あなたが潜在的に持っているであろう「興味の対象」が広告という形で潜り込んでいます。
Amazonの仕組みの方がもっと分かり易いでしょう。何かの商品を検索したり買い物をしたりすると、決まってその商品以外の「おすすめ」が表示されます。TwitterやInstagramやTikTokもおなじです。あなたがフォローしたりイイネを押したりすると、それに関連する記事やアカウントが提示されます。そしてその文脈で広告が提示されます。
自分たちが主体的に自由に遊んでいるつもりのスマートフォン。でもそこに表示される画面は決してあなたが選択したモノとは限りません。意図せざる画面が多く表示されており、そのことを意識することも無くなっています。
別に陰謀論を語っているわけでは無く、ネットの世界ではこの様な事態が当たり前なのです。GoogleやAmazonなどネットサービスの多くが無料で利用できるのは、利用しているあなたの属性を見極めた確度の高い広告やメッセージを提示できるからです。そしてその広告料で、特にGoogleは成り立っています。だからこそこの様な、かなり高度な技術を無料で利用できるわけです。
普段「正しい」と思って取得している情報も、Googleのアルゴリズムによってゆがめられたモノである可能性があると思われます。「自分」が興味を持って探した情報は、実はGoogleに踊らされているだけかもしれない。そしてその情報もフェイクかもしれない。
また、皆さんの中でSNSのアカウントを複数持っている方も多いと思います。特に複数アカウントが作りやすいTwitterでは「友達用」「情報収集用」「推し活用」と3種類持っている人が結構いると聞きます。実際、「LINEユーザーを対象にしたスマートフォンWeb調査」によると、女子高校生でTwitterやInstagramのアカウントを一つしか持ってない学生は2割程度で、約6割は複数のアカウントを持っていることが判ります。
調査対象:日本全国の高校1年生~3年生の男女、実施時期:2020年10月8日~9日、有効回収数:1033サンプル
つまり、自分が接するコミュニティで、アカウントを使い分けると言うことが当たり前になってきています。
本当の自分探し
さて少し話は違いますが、「今の私は本当の私ではない」と思ったことがある人は世の中にどのくらいいるのでしょうか。これに類する調査があります。令和元年版子供・若者白書によると、日本において、「自分に対して満足していない人」が55%と半数以上を占めます。それらの人がすべて「本当の自分はどこか他にある」と考えているとは限りませんが、その可能性があります。
今まで述べてきたことを無理矢理まとめてみると、「自分の考えを正しく導くはずの情報に偏りがあるかもしれない」、「自分自身が情報を発信する際にアカウントを複数持っている」、そして「そのような自分に対してあまり満足できていない=本当の私はどこか別の場所にいる」、このような若者の姿が浮かんできます。
さて、デカルトの話に戻ります。「我思う」の「我」とは何者でしょうか。この自明と思われる問いが、実は自明では無いかもしれないことが、これらの簡単な論考から見えてきます。
スマートフォンにつながっている巨大で精緻な<システム>によって、「我」も「思うこと」もコントロールされているのかもしれない。
ここでいう〈システム〉とは映画マトリックスを思い出していただけるといいと思います。キアヌリーブス演じる主人公は、特に刺激はないが過不足もないという「日常」を生きているが、しかしその「日常」はAIが生成した「夢の世界」だった・・・。この映画の前半で虚構の「日常」を支配しているのが〈システム〉です。
この考え方は、実はなにも新しいモノでは無くすでに多くの哲学者や識者が述べている「事実」です。それが冒頭で書いた「ポストモダニズム」の時代であり「再帰的近代」の時代であると言うことです。
じゃあどうするのか?
「別にいいじゃん、と考え、フェイクだろうが踊らされていようが自分がハッピーならそれで良い」、と考える人もいます。一方で「踊らされているのは気分が悪い、本当のリアルな自分に出会いたい」と考える人もいます。
そしておそらくそのどちらの態度も「ありよりのあり」だと思われます。
なぜなら我々を取り巻く巨大で精緻な<システム>からは、「すでにもう逃れようがない」からです。
逃れようがないのなら、<虚構=バーチャル>かもしれない世界の中で、「自分が上手く生きていければそれで良い」、と言う考え方は十分説得力があります。一方でそのような<虚構=バーチャル>ではなく<リアル>な自分を追い求めたいと言う人もいるはずです。なぜならいくら<虚構=バーチャル>の世界に身を置いていても、怪我をしたり病気になったりして痛みを感じるのはまさしく「我」であると思われるからです。
ここまで述べてきたことの大半には、「自分」の身体性については無視してきました。ボクが意図的に無視してきたと言うよりも、どうも哲学だの心理学だの社会学だの、もちろん数学にせよ何にせよ、学問に於いては「健康な成人」がすべての前提になっているからです。〔もっと言うと、「健康な白人男性」〕
医学に於いてさえ同じです。あくまでも「健康な成人」を基準にしてそれとの乖離を「病気」や「障害」と呼び、治療の目的はできるだけ「健康な成人」に近づけるためのモノです。
多くの学問はこの様にして身体性を無視することで成立しています。しかし実際に生活している<リアル>な自分は、痛みを感じます。風邪を引いて熱も出ます。ボク自身はこの「痛みを感じることのできる<リアル>な「自分」に依拠してゆきたいと考えています。
従って、「別にいいじゃん、フェイクだろうが踊らされていようが自分がハッピーならそれで良い」
と言う考え方はボクにはなじみません。でもこの考え方は先にも書いたとおり「ありよりのあり」です。
そして、この様な痛みをも「制御」する<システム>が近いうちにやってくるでしょう。痛みは脳が感じているわけですから、脳の中に何かのチップを埋め込めば痛みを除去できる。そして遺伝子工学の発達によって病気も無くなる。
まあでも、そのような世界はもうすこし先のようです。従って、<虚構=バーチャル>と<リアル>を行ったり来たりしながら、自分がコントロールできるところに集中して生きることが「幸せ」の一つの回答かもしれません。

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