戦略のおさらいとキャリアプランニングの基本
最もシンプルな戦略の考え方と言うのは、まず「現在地点を確認し、その上で目標を立て、目標と現在地点とのギャップを分析し、そこで必要なスキルや知識・経験をどのように積んでいくべきかを考え、スケジュール化し実行する」と言うものだと私は理解しています。
キャリアプランニングの基本的な考え方

目標がぼやけているのは、訳があります(後述)
この考え方を個人に当てはめると、まず、自分が何者か「自己認識、もしくはセルフイメージ」を確認する。そして、自分の目標を立て、ギャップ分析をすると言うことになると思います。
キャリアプランニングにおいては、自分の現在地点を確認する作業を「自己理解・自己分析」と呼んでいます。大学時代に就職活動を行った90年代中盤以降の人には馴染みのある、かつあまり楽しくない思い出が付随している人もいると思います。転職や第二の人生を考えていらっしゃる人も、
まず自分の現在地点を明らかにすること=自己認識・自己分析・キャリアの棚卸し
は欠かせません。
しかし、実のところ「適職診断」と言われているシステムの多くは、1900年代初めのアメリカで開発された「特性因子理論」と言われるかなり古いモデルがまだまだ主流になっています。(後述)
一方で、1995年以降のWindows95から始まる急速なネット社会の浸透と、2007年に発売された「iPhone」に代表されるスマートフォンの普及。そして2022年11月に発表されたChatGPTの登場によって、17世紀の産業革命を越える新たな技術革命が起きている今日、「キャリア」についての考え方は大きく変わって来ています。と言うか変わらざるを得ないのが実情です。先ほどの図で、将来がぼやけているのは「先が見えない時代」においてそもそも目標の設定自体が困難であることを表しています。
さらに言えば、自分自身の現在地点でさえ、理解するのは困難になって来ている、それがいわゆるポストモダンの現状です。
そのあたりのことを踏まえて、キャリアの考え方について歴史を遡ってご説明したいと思います。
中世から近代へ
中世と言うのは、いわゆる封建主義・封建時代と言われている時代のこと。日本で言えば江戸時代まで。ヨーロッパで言えば大体16世紀までと言われています。この時代はそもそも移動の手段がほとんどなく、かつ人々は領土に拘束されているため、地縁と血縁が非常に大きく影響した時代と考えられています。ヨーロッパにおいては、キリスト教もしくはイスラム教と言う絶対神の影響が強くあった時代です。この時代のヨーロッパは、今で言う「市民」と言う概念はありませんし、「自分自身で考える」という事はなかったと思われます(神父さまにお伺いを立てるとか、村の長にお伺いを立てるとか・・)
しかし、15世紀にグーテンベルクによる活版印刷技術の発明によって、情報の流通が飛躍的に拡大し、同じ世紀には、レオナルドダヴィンチが、数学や物理、天文学、美術などの分野で多大な貢献を遂げます。これらの土壌から、16世紀から17世紀にかけて近代哲学の父と呼ばれるフランスの哲学者、デカルトやイギリスのフランシスベーコン、そして近代科学の父であるニュートンたちが、近代理性と近代科学の時代を作り上げて行きます。
そして18世紀後半にフランス革命が起き、自由・平等・博愛の精神のもとに近代社会が確立していきます。ヨーロッパにおいて、中世までは絶対神になる所の「神」がすべての基本にありました。しかし、近代社会になることで人間一人ひとりが、「理性」と言う普遍的な力を持つものだと言うふうに考えられ、「市民」と言う階層が生まれます。(もっとも、それは白人の男性に限られた話でしかありませんが)
この「近代」と言うものは、自由と民主主義と言う形で、現代においても継続した普遍的な考え方として受け入れられています。
一方で18世紀中頃のイギリスにおいて産業革命が起こります。この産業革命を契機として、中世がまだ残っている農村と近代の考え方が普遍的になった都市とに分かれていくようになります。そして18世紀から19世紀にかけて後のポストモダンと呼ばれる考え方の基礎となる思想を提示したマルクスとニーチェが現れます。ポストモダンとは
内田樹氏の著書(寝ながら学べる構造主義)によると、マルクスは「人間の中心に人間そのもの、すなわち、「普遍的人間性」と言うものも宿っているとすれば、それはその人はどんな身分に生まれようと、どんな社会的立場にいようと、男であろうと女であろうと、大人だろうと子供であろうと、変わる事は無いはずです。マルクスはそのような伝統的な人間観を退けました」。つまり「普遍的な人間性」というものはない、と言う意味です。
そしてまたニーチェの基本的立場についてこのように述べています。「我々はいつも我々自身にとって必然的に赤の他人なのだ。我々は我々自身を理解しない。我々は我々自身を取り違えざるを得ない。我々に対しては、『各々が各々に最も遠いものである』と言う格言が永遠に当てはまる。我々に対して、われわれは決して『認識者』ではないのだ。」つまり自分自身で自分のことを認識できないと言っているわけです。
内田氏の著作には言及されていませんが、ニーチェやマルクスの時代のすぐ直前にダーウインが有名な進化論を展開しています。神によって創造されたある意味「出来上がった世界」が進化論によって、「これからも変わりゆく世界」に認識が変わったことも大きく影響していると考えます。
いずれにせよ、非常に簡単に言ってしまえば、それまで個人に付与されていると思われる理性や主体みたいなものが「そんなものはありませんよ」と言う思想が現れてきたと言うことです。そしてこれらの考え方を基盤にして、20世紀に入ってからソシュール、ミシェル・フーコー、ロランバルト、レヴィ=ストロースなどのいわゆるポストモダニズムの構造主義者たちが哲学の世界で幅を効かせるようになります。この方々たちの言論を一言でくくると言うのは、非常に無謀なことでありますが、改めて内田樹氏の著作から引用すると「私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである。」と言うことになります。
以上は海外の思想の紹介になりますが、日本においても代表的な思想家である丸山眞男が次のように言っています。(苅部直 丸山眞男より)
(20世紀の世界では、)「典型的なデモクラシー国家においても、大衆は巨大な宣伝及び報道機関の判断によって、無意識のうちにある一定のものの、考え方の規制を受けている」
つまり、言わんとする事は、自分で何か考えているつもりでも、それは決して自分のオリジナルなものがあるわけではなく、社会やメディアからの干渉によって作り上げられた「偽物としての自分」と言うことが言いたいのだと思います。
現在地点(自己)がどこにあるのかわからない
今までご説明させていただいたように、近代からポストモダニズムの時代においては、自己あるいは自分の理性、あるいはアイデンティティーといったものが、実はもう失われてしまっていると言うことがわかります。もちろん、一方で、現代人の意識が全てポストモダニズムに代表されるような考え方一辺倒になっているわけではありません。さらに言えば、地方に行けばまだ中世的な共同体意識みたいなものが息づいている地域もあると思います。
1980年代から1990年代に世間に流布した「自分探しの旅」が、世間的には当たり前な出来事になってきたことが、実は象徴的なことではないかと私は考えています。つまり「今の自分ではない本当の自分がどこかにある、それを探し出すために旅に出かける」と言う考え方がある程度一般化してきたのだと思います。逆に言えば、普段の生活の中で「自分」「アイデンティティー」と言うものが非常に曖昧になってしまったせいではないかと私は考えています。それはまさに日本の一般的な人たちが、現在がポストモダニズムの時代であることを感じ取るようになってきたことの象徴だと思います。
社会学者の宮台真司氏は、〈生活世界〉と言われる一人ひとりの関係性が非常に重要な意味を持つ社会から、〈システム〉が全てを管理する時代に、とっくに移っていると言う様におっしゃっています。(宮台真司 私たちはどこから来てどこに行くのか)。
映画マトリックスを思い出していただけると、ここでいう〈システム〉を理解できると思います。キアヌリーブス演じる主人公は、特に刺激はないが過不足もないという「日常」を生きている。しかしその「日常」はAIが生成した「夢の世界」だった・・・。この映画の前半で虚構の「日常」を支配しているのが〈システム〉です。話が少しそれましたが、宮台真司氏の見解は、すでに世界はポストモダンに侵食されているということです。
その観点から言えることは、「現在地点=自分の理解」そのものが非常に困難になってきたということがいえます。また、同時にインターネットを通して「フェイク」も含めて、様々な情報に触れることができるようになりました。さらに世の中の技術の進歩や複雑さが加速し、状況を見定めることも非常に困難になってきたと私は考えます。つまり、目標を定めることができても、現在地点とのギャップ分析が状況判断をきちんとできないが故に、キャリアプランニンングを立てることが非常に困難になっていると言うことです。
例えて言えば、ゆらゆらと揺れかつ潮流に流されるボートの上(=自己の現在地点)から、不規則に飛ぶ蝶(=キャリアの目標)を狙って撃ち落とすようなものです。うっかりすると、撃ち落とそうとしている本人が海に投げ出されてしまうかもしれません。
またボク自身の学生支援の現場から見ても、今の若者たちがあまりにも狭い世界の中で生きていると感じます。自分にとって居心地の良い「小世界」に長く棲息している彼らは、異なる環境への適応が困難と思われます。と同時に彼・彼女らは「自分を説明」するという習慣が非常に少ないように思えます。慣れ親しんだ狭い世界で生息しているが故に、そこに生息している人たちは頬同じ趣味や嗜好を持っているが故に、「他人に対する自己の説明をする」機会がないように思われます。あるいはその機会があっても、わざわざそんな面倒なことをする必要を感じないのかと思います。
つまり、現代の若者にとって、現在地点としての自己を明らかにする必要性は、就職活動における自己分析で初めて出会うものではないかと推測します。そして、その作業においてもテンプレートを使用するため、金太郎飴のような「自己の説明」に終始しています。
まさに、自己そのものが<システム>に取り込まれているのと変わりがないのではないかと考えます。そしてそのことはまさしく現代はポストモダンの時代に確実に入っていると考える根拠です。
近代におけるキャリア理論
近代のキャリア理論は20世紀の初頭にアメリカで開発されました。
代表的理論はフランク・パーソンズが提唱している特性因子理論やジョン・L・ホランドが提唱している六角形理論(R I A S E C理論)やと言うものです。
(これらの理論いついては別途功を分けて簡単にご説明する予定です)
これらの理論は「人間も社会も基本変化しないという前提のもとに、人が持つ特性と、職業ごとに異なる仕事の特性をマッチングする事で適職に就ける」と言う考え方です。まさに近代において、個人が持つとされる「不変の主体性≒アイデンティティ≒性格≒行動特性」に重きを置いたキャリア理論と言えます。また同時にこの理論においては社会における仕事も概ね変化しないという考え方です。
ボクに言わせるとこれらの理論は20世紀の時代と比べたときその有効性は相当程度落ちて来ていると言う実感があります。
なぜなら、ポストモダン云々の少し厄介な考え方に言及するまでもなく、そもそも我々が現時点で就労可能な仕事の性質が20世紀と比べて大きく変わって来ているからです。
これらの特性因子理論などの「マッチング理論」が提唱される少し以前の1900年のアメリカは、農業などの一次産業の割合が高く(約42%)、フォードの自動車工場に代表されるような工場におけるラインでの組み立ての仕事(二次産業 約28%)と現在のようなサービス業(3次産業 約29%)の割合は一次産業に比べて低いものでした。しかし、現在においてはサービス産業が圧倒的な主流を占めています(1985年時点ですでに70%以上)。

日本の場合も概ね同じような傾向です。1920年時点で一次産業従事者の割合は約54%、二次産業は約20%、三次産業が22%であるのに対して、2022年時点で一次産業はたったの3%、二次産業は約23%、三次産業は約74%と劇的に三次産業の比率が伸びています。

ポストモダンのキャリア理論
新しい仕事がどんどん生まれていく現状で、かつ生成A Iの登場で失われていく仕事もあると思います。そういう複雑化し専門化し大きく変化をし続ける仕事にマッチングできる人材を既存のシステム(V R T、V I P、G A T Bなどのパーソンズやホランドが提唱した理論に基づくシステムのこと。日本の労働行政を司る厚生労働省の下部組織であるハローワークにおいては、これらのシステムが強く現存している)で対応できるかというと正直疑問符が残ります。
現時点で日本におけるリクルートグループが持つ「S P I」や海外企業であるS H L社がもつ性格・行動特性を把握するシステムは上記のシステムより高度化され、個別企業に在籍している社員と傾向値が似ている人をマッチングすることは可能だと思います。しかしその精度はまだ高いとはいえず、各企業の不活性者になりそうな人の抽出や、配属部署の決定やその後のマネジメントにおいて活用されていると聞いています。いずれにせよそれらの高度化されたマッチングシステムにおいても、まだ的確に「人」と「仕事」をマッチングするには至っていないようです。
そして非常に重要なことは、ポストモダンにおいては「変化」が当たり前なので、「環境変化に対する対応力」の強い人が生き残るとボクは考えています。
ポストモダンや、グローバルで複雑化してゆく社会におけるキャリア理論として「計画的偶発性理論」(クランボルツJ D)「プロテインアンキャリア」(ダグラス・ホール)と言うものがあります。また、「社会構成主義的なナラティブカウンセリング」(マーク・サビカス)と言う三つの理論があり、ボクはこの三つの理論に関して、かなり妥当性があると考えています。
そして、その一つ前の段階で、カウンセリングの技法としてアルバート・エリスの論理療法があります。これは現在の認知行動療法のもとになった理論の一つです。
(これら四つの理論については項を改めて記載したいと思います。一つの理論を紹介するだけで一冊の本が書けるくらいの内容です。クランボルツ氏の計画的偶発性理論はネットで検索するとかなり頻出されます。)
これらの考え方に共通する点は、「人は変わりゆく」と言うものです。
あるいは「人は変わり続けねばならない」と言い換えることが出来るかもしれません。
先に述べた通り、進化論以前の1800年代は「人も、自然も社会もずっと変わらない」と言うことがある程度普遍的に信じられていたものが、徐々に変わっていき、やがては現代の様に、「スーパーフラット」で「なんでもあり」な社会と人々の生活になってきたのだと思います。一方で、フリーハンドであるからこそ支えを失い迷子になることも増えているとも言えます。
この様に、これからはより不確実な情報や状況の中で、自らの感性と思考力を鍛えて生きていかなくてはならない時代なのだと強く感じます。
ここで展開した拙論は、「正しいかどうかわかりません」と言うことが、実はこの拙論の結論になります。私だって、自分の現在地点がわからないのですから、私の思考が正しいとか正しくないとかの判断は私には不可能です。私が持っている信念も、実はイラショナルビリーフしれません。しかし、私は私の知っている限りと経験値からこのような拙論を紡ぎ出しました。ここに記載した内容は、私が勝手に作り出した一つの物語です。その物語を根底に置きながら私は普段のカウンセリングを行なっています。

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